国登録有形文化財「本田家住宅主屋・薬医門」

更新日:平成30年12月13日

本田家とは

本田家は、遠祖を鎌倉時代の畠山重忠に仕えた本田次郎近経とし、初代定経(さだつね)までは現在の群馬県渋川に居住していました。二代定寛(さだひろ)は埼玉県川越に居を移し、馬医、調馬を家業とします。家伝には、四代定之(さだゆき)が寛永年間(1624から1643)に谷保に移住したと書かれ、また現在の本田家住宅はこの時に用意されたものとされています。
以降、谷保の地に徐々に根差し、代々地主・名主として、また地域に貢献する医者、文人書家として、近隣からも信頼される存在となります。
明治初期には、多摩地域の自由民権運動で活躍、大正から昭和にかけては大学町開発に関わり、現在の文教地区国立の礎に貢献しました。明治以降は、書家・篆刻家、地域の名望家として「本田家に足を向けては寝られない」と近隣の方に言わしめた、国立を代表する名家です。

 

平成28年、本田たか(注)夫(ほんだたかお)氏より、貴重な文化財として活用しつつ後世に遺すため、本田家住宅主屋・薬医門ならびに本田家旧蔵資料が、国立市に寄贈されました。

(注)「たか」は「和」という字の左側と右側を入れ替えた字

案内地図

本田家地図

(注意)特別な期間を除き、現在、本田家住宅は公開していません。

 

本田家住宅について

本田家住宅は、江戸時代期より国立市谷保に建つ由緒ある建造物です。
建造年代は特定されていませんが、室内に残る家作の安隠を祈願した祈祷札に享保16(1731)年とあり、それ以前に建てられたと考えられています。
主屋の建築当初の間取りは、食違六間型で六部屋から成り、都内においてこの形の遺構としては最古級のもので、屋根は入母屋造りに茅で葺かれ、現在は鉄板で覆われています。
江戸時代後期にはチャシツやサンジョウマが増築されるなど、歴代の本田家当主に守られながら経年してきました。昭和に入ってからは、出入りの大工と家屋の保存を相談しながら住み継がれ、今日を迎えています。

本田家住宅主屋

 

本田家住宅主屋

平面図(現在)

本田家地図

薬医門について

建築様式から幕末に建造されたと推定されており、屋根は切妻造銅板葺です。
馬に乗ったまま門をくぐれたとのことから、本田家では「オウマモン」と呼ばれ、近隣では「本田の門」とも呼ばれてきました。
昭和7(1932)年に甲州街道の拡幅工事に伴い、甲州街道沿い南向き敷地中央から現在の位置である敷地東南隅に移動しています。
戦後、屋根の茅葺の上にトタンをかけ、後に銅板に取り換える部分的修理はされましたが、大きな改築なく建築当時の姿を残し保存活用されてきました。

本田家住宅薬医門

本田家住宅薬医門

BS朝日「百年名家」で本田家が放送されました

平成30年5月13日、BS朝日の「百年名家」で本田家が紹介されました。

BS朝日「百年名家」のページ

くにたち郷土文化館秋季企画展「本田家と江戸の文人たち」が開催されました

平成30年10月27日(土曜日)から12月9日(日曜日)まで、くにたち郷土文化館において秋季企画展「本田家と江戸の文人たち」を開催されました。(現在は終了しています)

本田家企画展チラシ(表)

本田家企画展チラシ(裏)

国登録文化財 本田家住宅主屋・薬医門と旧蔵資料について

国立市の近世・近代を語る上で、本田家は無くてはならない存在です。歴代の当主は下谷保村の名主や谷保村村長を歴任するだけではなく、村医者・文人としても地域社会に貢献してきました。また、大学町開発では現在の東地区のほとんどを提供したとことも有名です。それらの活動を裏付ける貴重な資料群の調査を、平成23年度より市教育委員会生涯学習課で行ってきました。その成果が、この冊子にまとめられていまます。

国登録文化財本田家住宅主屋・薬医門と本田家旧蔵資料(PDF:1.1MB)

資料で見る本田家

馬医・調馬吏

二代定寛(さだひろ)は川越で馬医と馬の調教をしていましたが、江戸時代に入り四代定之(さだゆき)は三代将軍家光四代家綱に仕えて幕府の厩舎に勤め、その功労により幕府から拝領した葵の紋の付いた鞍が今も残されています。そしてこの頃、府中の馬市との関係から寛永年間(1621から1643)に谷保の地に移ってきたといわれています。

本田家鞍(拝領葵紋付馬具)

根来塗りで鞍骨に延宝9(1681)年の焼印がある

本田家鞍

医者・名主

馬医であった四代定之(さだゆき)はその後医者となり、九代定綏(さだやす)(号名:随庵(ずいあん))の代には村医者として近隣に広く知れ渡る存在となって、杉田玄白とも交流があったとされています。また、地主としての力も蓄え、名主として村の政治にも関わるようになりました。江戸後期以降、本田家は代々医者として、下谷保村の名主、地主として、地域で中心的な役割を果たしました。

神農像

医業・薬業の祖神として本田家の神棚に祀られ、台座に文化元(1804)年の墨書がある

神農像

書家・文人

十代定价(さだすけ)(ごう(注)斎(ごうさい))は医業と共に、市河米庵に入門し米庵流の書を習い、菊池五山や野村瓜州に漢詩を学び、谷文晁など江戸の文人たちとも交流を持つようになりました。十一代定済(さだなり)(覚庵(かくあん))の日記には、川本衡山や小野湖山、寺門静軒、猿渡盛章、容盛などとの交遊が記され、十三代定年(さだとし)(退庵(たいあん))は後半生に書家として大成し、他の書道家と共に六書会を結成、神田で書法専修義塾を主催して津田梅子や松方正義などを教授しました。十四代定壽(さだじゅ)(石庵(せきあん))は初世中村蘭臺の高弟で篆刻家として知られ、書家としても全国から揮毫の依頼を受けていました。十五代定弘(さだお)(谷庵(こくあん))も篆刻家で特に刻木に優れ、山口瞳など様々な文化人との交友がありました。

(注)「ごう」は、「昂」の左下の部分を工とした字

扁額「大観書屋」

幕末三筆のひとり市河米庵が門下のごう(注)斎のために書いたもの(撮影:佐治康生)

扁額「大観書屋」

本田谷庵刻 本田家歴代刻木

本田谷庵刻 本田家歴代刻木

本田石庵作篆刻印

本田石庵作篆刻印

新選組

十一代定済(さだなり)(覚庵(かくあん))の日記には、若き日の近藤勇、土方歳三が覚庵の元を訪れていたことが記されています。土方家は本田家とは姻戚関係のため、よく出入りしていました。十二代定方(さだかた)東朔(とうさく)、十三代定年(さだとし)(退庵(たいあん))は幼い頃に近藤の元で天然理心流の剣術を学んでおり、六所宮(現府中・大國魂神社)へ奉納する天然理心流の扁額の揮毫について覚庵と近藤が明け方まで相談したという記述も残されています。

伝土方歳三土産染付茶碗

伝土方歳三土産染付茶碗

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教育委員会 生涯学習課 社会教育・文化財担当


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