くにたちのあゆみ

更新日:2023年06月30日

中世

 鎌倉時代の後期には「谷保郷」という地名が成立しました。本来谷保の「谷」は「ヤツ」で、湿地帯を意味し、この地域が水田に適した土地条件を持っていたことからも、稲作が盛んだったと考えられます。鎌倉の御家人の津戸氏と名のる武士が、谷保に住んでいたといわれています。

江戸時代・明治時代

 江戸時代、今の甲州街道を中心に民家が立ち並び、やがて村へと発展。住民は農業、養蚕を主とし、街道沿いには商業・手工業を営む家もありました。
 明治22年(1889年)には、谷保村・青柳村・石田村飛地の3村が合併し、国立の前身の「谷保村」となりました。同26年(1893年)には、それまで属していた神奈川県から東京府へと移管されました。

大正時代

 大正時代末期になっても、谷保村は甲州街道沿いに数百戸の農家が点在するだけでした。しかし、谷保村の北部一帯の山林が、箱根土地株式会社によって開発され、理想の文教都市をめざして、整然とした街路が作られました。大正15年(1926年)には、国立音楽大学が創立され、また、国立駅が開設されました。

昭和時代から現在

 昭和2年(1927年)に一橋大学が誘致され、4年(1929年)に南武線が開通しました。昭和20年(1945年)代には第二次世界大戦による疎開と、戦後の住宅復興によって、人口はうなぎのぼりに増え、26年(1951年)に谷保村から国立町になりました。また、そのころ国立の教育環境を守るため、市民や学生を中心に「文教地区指定運動」が起こり、27年(1952年)1月6日、国立は建設省と東京都から「文教地区」の指定を受けました。40年(1965年)、公団の富士見台団地が完成し、人口も一躍5万人を突破しました。そして42年、「国立市」が誕生しました。さらに、平成10年(1998年)には市民が7万人を超え、現在に至っています。
 計画期間を平成18年度(2006年度)から平成27年度(2015年度)までとする第四期基本構想では、国立の将来像を“人びとのつながりを大切にし、互いを認めあい、ともに暮らしています”“子どもたちが遊び、お年寄りがまちで暮らす風景があります”“季節の風を感じ、豊かな文化との関わりがあります”と描き、それらの実現に向けた市政に取り組んでいます。

市民のまちづくりの出発点「文教地区指定運動」とは…

(写真)文教地区の看板の写真

 国立駅前のロータリーには、「国立文教地区」の看板が掲げられています。この文教地区の由来は、たんに大学や学校の数が多いからではありません。1950年代の町を二分する大論争の末に、決められたものです。
 昭和25年(1950年)、朝鮮戦争が勃発し、隣の立川市には基地があり、多数の米兵が進駐してきました。その影響は国立にも及び、米兵相手の簡易旅館や飲食店などが出現し、いかがわしい商売を始めだしました。
 環境を守ろうとする市民や学生を中心に、東京都文教地区建築条例の指定を目指して運動が始まりました。この条例は、市街地の青少年の環境を守ることを目的とし、その地区では、風営法の適用を受ける料亭・キャバレーなどの建物は建てられず、ホテル・旅館建築も制限されます。しかし、経済的発展のためには文教地区指定は障害になる、町がさびれ税金が高くなるという反対派との間で大論争が起こりました。
 町議会では熱気にあふれた討議が続き、一転二転した結果、文教地区指定を議決し、都に申請。昭和27年(1952年)文教地区の指定を受けました。
 文教地区指定運動は、単なる歓楽街の進出反対運動ではなく、開発以来の理想の学園都市づくりの再選択の運動であったといえます。この運動で国立市民は、学校、行政と一丸となって「開発」より「環境」のまちづくりを選択しました。これは、その後の国立のまちづくりの方向を市民が決定づけたことであり、住民自治の先駆的事例としての歴史的意義は大きいといえます。

この記事に関するお問い合わせ先

政策経営部 市長室 広報・広聴係



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