本田家旧蔵資料

更新日:2023年09月14日

本田家旧蔵資料とは、本田家当主の活躍や地域の歴史をたどることのできる唯一無二の資料群であり、主屋内や蔵に大切に保管されていました。当主の生業である馬医・医者関係や名主・戸長に関する資料、書画・篆刻など文人文化に関する資料、新撰組関係、自由民権運動関係、国立大学町開発関係、江戸から近現代の生活に関する民具など7万点にのぼり、その膨大な資料群が一軒のお宅に残されてきたことは全国的に見てもほとんど例がありません。
現在これらの資料は、旧本田家住宅と共に国立市へ寄贈いただき、今後、資料の適切な保存と活用のために、それぞれの運用を検討していることろになります。このページでは、その膨大な資料の一部を当主の活躍と共にご紹介いたします。

馬医・調馬吏

二代定寛(さだひろ)は川越で馬医と馬の調教をしていましたが、江戸時代に入り四代定之(さだゆき)は三代将軍家光、四代将軍家綱に仕えて幕府の厩舎に勤めその功労により幕府から拝領した葵の紋のついた鞍が今も残されています。そしてこの頃、府中の馬市との関係から寛永年間(1621から1643)に谷保の地に移ってきたといわれています。

本田家鞍(拝領葵紋付馬具)

根来塗りで鞍骨に延宝9(1681)年の焼印があります。

本田家鞍

医者・名主

馬医であった四代定之(さだゆき)はその後医者となり、九代定綏(さだやす)(号名:随庵(ずいあん))の代には村医者として近隣に広く知れ渡る存在となって、杉田玄白とも交流があったとされています。また、地主としての力も蓄え、名主として村の政治にも関わるようになりました。江戸後期以降、本田家は代々医者として、下谷保村の名主、地主として地域で中心的な役割を果たしました。

神農坐像

医業・薬業の祖神として本田家の神棚に祀られ、台座に文化元(1804)年の墨書があります。

神農坐像

書家・文人

十代定价(さだすけ)(号名:ごう(注)斎(ごうさい))は偉業と共に、市川米庵に入門し米庵流の所を習い、菊池五山や野村瓜州に漢詩を学び、谷文晁など江戸の文人たちとも交流を持つようになりました。十一代定済(さだなり)(号名:覚庵(かくあん))の日記には、川本衝山や小野湖山。寺門静軒、猿渡盛章、容盛などとの交流が記され、十三代定年(さだとし)(号名:退庵(たいあん))は後半生に書家として大成し、他の書道家と共に六書会を結成、神田で書法専修義塾を主宰して津田梅子や松方正義などを教授しました。

(注)「ごう」は、「昂」の左下を工とした字。

扁額「大観書屋」

幕末三筆のひとり市河米庵が門下のごう(注)斎のために書いたもの(撮影:佐治康生氏)

本田谷庵刻 本田家歴代刻木

本田石庵作 篆刻印

新撰組

十一代定済(さだなり)(覚庵(かくあん))の日記には、若き日の近藤勇、土方歳三が覚庵の元を訪れていたことが記されています。土方家は本田家と姻戚関係のため、よく出入りしていました。十二代定方(さだかた)(東朔(とうさく))、十三代定年(定年)(退庵(たいあん))は幼い頃に近藤の元で天然理心流の剣術を学んでおり、六所宮(現府中・大國魂神社)へ奉納する天然理心流の扁額の揮毫について、覚庵と近藤が明け方まで相談したという記述も残されています。

伝土方歳三土産染付茶碗

ふるさと納税の選べる使い道で「旧本田家住宅」が選べるようになりました

旧本田家住宅は、建物の痛みが激しいことから公開・活用が限られていましたが、多くの方が旧本田家住宅を訪れ、活用していただけるよう、現在、解体復原事業を行っています。皆様のご支援をお願いします。

ふるさと納税の制度概要や寄附方法等については、下記ページをご覧ください。

この記事に関するお問い合わせ先

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